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日本ツアーを始めたきっかけについて 

僕が日本ツアーを始めたのは、今から10年以上前にさか上る。2013年の春に元ブレイクダウンの服田洋一郎氏のライブが京都の磔磔であるのを知り、それを観に行く目的でアメリカから日本に行ったのが事の始まりだった。

 

(ちなみにコンサートを観に行くために日本に帰ったことが、もう一回だけある。それは大阪で観た「中川イサト 有山じゅんじ」のショーだった。)

 

僕は学生時代に京都でブレイクダウンのライブを何度も観ていたが、実はその日初めて服田「ハッちゃん」洋一郎氏と話をした。ブレイクダウンの頃は何か張り詰めた雰囲気が漂っていて、畏れ多くて話しかけられなかった。

 

が、そのときは僕がアメリカから氏のライブを観に来たことを知って、えらく歓迎して頂いた。しかしながら、服田氏にお会いしたのは、あの日が最期となった。

 

当日、磔磔のご紹介で服田氏のバンドのバックのメンバーの方々と知り合い、その助けをお借りして、僕は同年の秋に待望のライブを磔磔で実現することが出来た。

 

磔磔に出演するのは何と30年ぶりであった。そのライブ1本をやるために日本に行ったのだった。僕はそれまで長い間日本を離れていて、ミュージシャンのネットワークを一から作り直す必要があった。

 

以来、毎年一回は日本に行き、ツアーを京都から大阪、名古屋、東京へと徐々に拡張して行った(パンデミックの間を除いて)。

 

今では、行く先々で当地のミュージシャンにサポートをして頂き、ツアーの内容もこれ以上の濃さにするのが難しいのではないかと思えるレベルにまで達した。いつも試行錯誤を繰り返しながら、思えば長い道のりを来たものだ。

 

今後は日本ツアーのさらなる拡張をもくろんでいるが、それは次回の出来次第だ。僕はツアーに出かける前には、いつもこれが最後になるかも知れないつもりで準備している。

 

(写真はこの4月にサンフランシスコ空港にて)

 

今秋の日本ツアー 

この秋にまた日本ツアーを予定している。

パンデミック以前に比べると、今ではツアーを2週間に拡張し、大阪から東京まで計6都市を回る。例によって街から街へと現地のプレーヤーを募って渡り歩く一人旅だ。

 

現在、日本ツアーに焦点を置いているのは、長年アメリカでブルース音楽をやって来て、もう当地では自分がやれる範囲のことはやり尽くした感があるからだ。次のフェイズとして僕の中には今、日本がある。

 

日本の優れたブルース・ミュージシャンの方々と共演することで、こちらも刺激を受けることが多い。それにツアーの楽しみには、古い友人との再会や新しい出会いがある。もちろん美味しい日本食も。

 

ところで最近の心境の変化の一つは、ギターのエフェクターを使うのをやめたことだ。昨秋、日本にギター2本に加えてエフェクター・ペダルボードを一式持って行き、道中その重さに大変な思いをした。

 

その時、昔のブルースマンやウーマンみたいに、ギターをアンプに直接つなぐだけで自然なトーンでプレーするのも悪くないと、再認識した。かつて自分がギターを弾き始めた頃もそうだったように。

 

以前シカゴ在住時に出会った、数少ない古典派ブルースギタリストの一人、イリノイ・スリム氏は「ペダルを踏むのは、自転車に乗るときだけにしろ。」と僕によく言っていたものだ。

シカゴの思い出 (番外編) 

僕は2017年から3年ほどシカゴに住んだが、果たしてシカゴで生活するにはどれぐらいの費用がかかるのか。

 

まず、単身でアパート暮らしをするのに、家賃が月に千ドル。僕はダウンタウンやノースサイドのブルース・クラブに通勤するのに、ミシガン湖岸のレイクショアドライブ通り沿いに住んでいた。

 

これは、僕が今住むカリフォルニアの都市部に比べると半額以下である。シカゴはアメリカの中西部では一番の大都市であるが、それでも東海岸や西海岸の市街地よりも物価が安い。

 

さらに、健康保健費。アメリカの医療費は目が飛び出るぐらいに高いから、健康保険無しではもし何かあったときには生活が行き詰まってしまう。

それに食費や光熱費も含めた諸々の生活費は、いくら質素に暮らしても、月に千ドルから千五百ドルぐらいか。

 

他には、車とその維持費と自動車保険料だ。アメリカは車社会で公共の交通機関は日本ほどには便利ではない。

 

以上、必要経費は大まかに見積もっても最低月に二千五百ドルというところか。つまり年間には、倹約してもおよそ三万ドル、プラス税金だ。もちろん所帯持ちならこれではやって行けない。

 

さて、バンドのライブだけで年に三万ドル以上を稼ぎ出すには、一晩に150ドル貰える仕事 (サイドマンなら実入りとしては悪くはないが週に45日、月に20本以上、一年間には200本をゆうに超えるライブを休み無くやる必要がある。フリーランスのミュージシャンには有給休暇も病気欠勤も無い。

 

シカゴの街には有能なプレーヤーがゴマンといる。だが今シカゴで、それだけ活発に活動しているブルースバンドはごく限られているだろう。僕がシカゴで出会ったミュージシャンの多くは、音楽以外にも副収入源を持っていた。

 

音楽だけで生計を立てて行けるミュージシャンは、ごく限られている。さらに、楽しみながら音楽の仕事をして行ける人は、才能豊かな極めて限られた幸福な人々だといえる。

春の日本ツアーを終えて 

 

昨秋から4年ぶりに再開した日本ツアーは、この春も無事に10日間に9本のライブを滞りなく終了した。今回さらに力強い手応えがあった。

 

街から街へと一人で渡り歩き、行く先々でその土地のミュージシャンとプレーするのは、刺激と変化がある。それは、言わばフリーランスでブルースやソウル音楽を演る利点の一つとも言えるだろう。

 

日本のプレーヤーの方々は概して、こちらが前もって送ったセットリストに基づいて、忠実に準備をして来てくれる。だから、当日の短いリハーサルだけでも、本番のステージでは高い質の演奏が期待できる。

 

2週間に渡るツアーは、そのゲストやサポート・ミュージシャンを入れると総勢20人以上にも及ぶビッグプロジェクトである。さらにオープニング・バンドのメンバーも加えると、その数は40人を超える。ツアーの企画には膨大な時間と手間が掛かるだけでなく、道中の交通手段や宿泊の手配も全て自分一人でやるからなかなか大変だ。

 

だが日本のトッププレーヤーの方々との共演は、こちらも大いにインスパイアされることが多く、それは正にミュージシャン冥利に尽きる。だからこそ、やり甲斐があるのだ。

 

しかし一方で年々、米西海岸からの長旅の疲労がこたえるのは否めない。それに、日本に到着してすぐに時差ボケと闘いながら演奏したり歌うのは正直なところ楽ではない。

 

この10年間、僕はフルタイムのミュージシャンとしてアメリカでサバイバルしたことで、今おそらく自分のパフォーマンスはピークに来ているだろう。今後のフォーカスは日本ツアーに置いているが、果たしていつまで日本に行く気力と体力を維持できるのだろうか。

 

僕は人前で演奏するときはいつも、もしかするとこれが最後になるかも知れないというつもりでいる。だから、これからも11回のステージを大切に、ベストを尽くすのみだ。

シカゴの思い出(そのX) 

2017年から約3年にわたり僕がシカゴに住んでいたとき、当初は毎晩のように当地のブルース・ジャムセッションや、ナイトクラブに出演しているバンドに飛び入りで演奏させてもらっていた。多い時には一晩に23軒ハシゴしたものだ。

 

その目的は二つあり、まず第一に露出することで既存のバンドのメンバーとして雇ってもらうこと。それに、自分のライブをブッキングした際に、バックのサポートをして貰えるミュージシャンとのコネを作ることだった。

 

ある夜、老舗クラブのB.L.U.E.S. on Halstedでジャムセッションに加わっていたとき、ステージから見て長細い店の後ろの方にある入り口から、ルリー・ベル氏が入ってくるのが目に入った。

 

僕はその時、これはシメタッと思って、すかさずバディ・ガイ作のA Man And The Blues というスローブルース曲のイントロを弾き始めた。ルリー・ベルが原曲をマイナー・キーに替えているバージョンを僕は知っていた。その曲を終えて、初めて会ったベル氏のところに行って自己紹介をすると彼は、「今の君のプレーはなかなか良かった(You sounded good.)」とお世辞を言ってくれた。

 

そしてその次の週に、ベル氏がローザズに出演していたので僕はそれを観に行った。すると彼は客席のテーブルに居た僕を目ざとく見つけて、曲の合間に「私の友人が今、店に来てくれているんだ (A friend of mine is in the house.)」と言って、何とステージに僕を呼んで数曲一緒に演奏させてくれたのだ。

 

シカゴの街の凄さは、それまでレコードでしか知らなかった有名プレーヤーとの距離が一瞬にして縮まるところにある。

 

こういったマメな努力を僕が半年ほど重ねているうちに、キングストン・マインズにてある真夜中に、元バディガイ・バンドのベーシストであったJ.W. ウィリアムズ氏の目に留まった。そうして、ようやく当地でよく知られたJW Williams & Chi-Town Hustlers にレギュラーメンバーとして雇われると言う、願っても無い幸運に恵まれた。その仕事は、僕が元来たカリフォルニアの家に戻るまで丸2年続いた。

 

シカゴの街は世界中から訪れるビジターを大いに歓迎してくれる懐(ふところ)の深さがある。だが、コンペチターの立場で、限られた数の仕事を競争の中で取っていくには、余程の覚悟が無いとサバイバルするのは困難だろう。

「日米でプレーするブルースの違いについて」あとがき 

昨日まで「日米でプレーするブルースの違いについて」というテーマで10回連載しました。これは「あとがき」です。

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言葉や文化の違い、人種の壁、外国人が合法的に労働する難しさなど、日本のミュージシャンがアメリカで活動する際の障壁について書いた。本人の才能や努力だけでは乗り越えられない壁があるのは確かだ。

 

しかし音楽に限らず、全米いや世界に通用する実績を残した日本人に僕は深い感銘を受ける。例えばスポーツなら、野球のイチロー選手や大谷選手、ゴルフの松山選手や渋野選手などなど。

 

中でも、もう30年ほど前になるが、日本人として初めて大リーグで活躍した野茂投手に僕は最も勇気づけられた。それは、「初めて何かやった」ことに大いに意義があるからだ。1995年に僕はちょうどロサンゼルスに住んでいて、ドジャース・スタジアムで強打者をバッタバッタと三振に討ち取るその勇姿を見た感動は、今も忘れられない。

 

僕がシカゴに住んでいた2019年にも、エンジェルス 対 ホワイトソックスの試合で大谷選手が4番指名打者(写真)で登場し、ホームランを打つのを幸運にも目撃した。あれから数年経って、大谷選手が大リーグで2度目のMVP 、それにホームラン王にも輝くとは脅威!

 

いつの日かブルースの世界にも、ワールドクラスのブルースマンやウーマンが日本から出現するかも知れない。

 

(終わり)

日米でプレーするブルースの違いについて (番外編) 

アメリカで外国人が働くには、移民局からの労働許可が要る。無期限で自由に仕事をするには永住権 (いわゆるグリーンカードが必要だ。

 

アメリカ人と結婚するケースは別として、永住権の許可が降りるかどうかの基準は、アメリカ市民を差し置いてその外国人に労働が許されるだけの技能や知識があるかどうかにある。つまりその移民を受け入れることによって、どれだけのメリットがアメリカの国にあるのかを移民局が審査する。アメリカンドリームを胸に抱いて来る外国人が誰しも経験する関所だ。

 

僕はもともと、音楽をやるためにアメリカに来たのではなかった。最初は留学生ビザでアメリカに入国したのだが、そのビザの期限が切れる直前に、まさに奇跡的に会社員の仕事を見つけ、そのサポートで永住権を取得した。一生のうちで「神風が吹いた」と思ったのはその時以外には無い。それは永住権の取得は、自分の努力だけではどうにもならない一番困難な壁だったからだ。

 

それから20年ほどは、まっとうに昼間の仕事をしながら細々と音楽を続けた。しかし今から10年前に、このままパートタイムで音楽を続けていても結局はパートタイムな結果しか出ないのではとハタと思い立ち、会社勤めを辞めてフルタイムでブルースを演るという大きなギャンブルに出たのだ。

 

自由人となってこの10年、アメリカでサバイバルした自信は大きい。思えば何の保証も無しにアメリカに来て、一人で試行錯誤を重ねながらここまで来た。今では自分のやりたい仕事だけをやる、フリーランスのミュージシャンである。今後これまで培って来たものを日本にお返し出来ればこんな嬉しいことはない。

 

それにつけても、もし仮に時計の針を自分が日本を飛び出した1980年代に巻き戻せたとしても、僕はやっぱりまたアメリカに来る決心をするだろう。こんなに刺激と変化に満ちた人生は無かった。

 

今でも時々ふと思うのは、もし最初からシカゴに住んでいたら今はどうなっていただろうかと。音楽的にはおそらくシカゴでもっと広く深くブルースの根を生やしていたかも知れない。が、逆に今日までこの国でサバイバルできたかどうかは疑問だ。 僕には、大きく遠回りしたことによって、結局は目的地に無事に到達できたような気がしてならない。

 

本題のシリーズはこれで終わりです。ご清読ありがとうございました。

日米でプレーするブルースの違いについて (その9) 

日米のライブの違いを一言で言うと、アメリカでは自発性や意外性を含めたグルーヴ重視、日本では聴衆を唸らせる完璧性を期待されていることにある。

 

アメリカのナイトクラブはたいていステージの前にダンスフロアーがあり、お客はお酒も進んで気分が良くなってくると席を立って踊り始める。多くの人は聴くだけでなく、グッドタイムを体でエンジョイするために音楽を聴きに来るのだ。

 

日本はコンサート形式で、開演から閉演まで2時間ぐらいの間は、聴衆は着席したままちゃんと音楽に耳を傾ける。ステージから見ていて、たまにお客さんの指先がテーブルを優しく叩いていたり、その膝頭が揺らいでいたりすると、「おーっ、今日は皆んなノッてるなーっ」と声を掛けたくなる。

 

それに日本では音楽を深く聴き込んでいる方が多い。聴衆の中には評論家顔負けにそのジャンルに精通している人も居るから、演奏する側も気が抜けない。これも日本ツアーに出るときは、アメリカを出発する前に僕が用意周到に準備する理由のひとつだ。

 

それにつけてもこれまでの人生を振り返ると、僕はいつも新しい環境での刺激を求めて、あたかも川の逆流をずっと逆上りして来たかのように思う。大阪で高校時代に黒人ブルースにハマって以来、40年以上もの間、僕は悪魔に魂を売り続けて来たのだろうか?(それは、ちょっとカッコ付け過ぎや。)

(続く)

日米でプレーするブルースの違いについて (その8) 

日本でやるライブはコンサート形式で、お客さんは開演時間の夜7時前には席に着き、2時間のショーを観た後に終電には間に合うように家路に付く。

アメリカは車社会で、バーやレストランではウォーク・インとウォーク・アウトが自由だ。そもそも演奏がたいてい3時間 (3セット) かそれ以上と長い。

 

シカゴのブルースクラブでは、ライブ開演も夜の9時や10時からで、その仕事が終わると午前1時や2時になるのが普通だった。僕はシカゴのダウンタウンにあるブルー・シカゴでライブを終えたあと、その帰りに朝の4時までやっているノースサイドのキングストン・マインズによく立ち寄った。ネットワークを広げるため、そこで知り合いのバンドに何と午前3時ごろからよく飛び入りで演奏させて貰ったものだ。

 

そういうコマメな努力をコツコツと続けているうちにやがてそれが実を結び、キングストン・マインズやそこから通りを隔てて斜め向かいのB.L.U.E.S.でもレギュラー出演するチャンスにつながった。

 

夜もふけた午前4時過ぎ、帰り道にスーパーで食材を買って朝メシを作ってから寝床に就くと、夏場ならもう空が白んでいた。昼と夜が完全にひっくり返った夜勤生活が数年続いたのも、今となっては懐かしい思い出だ。

(続く)

日米でプレーするブルースの違いについて (その7) 

バンドを運営・管理して行くには、強いリーダーシップが不可欠である。バンドの演奏はもちろんチームワークであるが、メンバー全員の意見をいちいち聞いていたのでは、遅かれ早かれそのバンドは行き詰まるだろう。ただでさえアーチストは自我が強いのに、それが何人か寄ったグループに民主主義は有り得ない。

 

僕は仕事のブッキングやメンバーの調達、そしてライブの宣伝などを全て自分一人でやる。ツアーに行くときは、飛行機や交通手段、宿泊の手配などもだ。ライブ会場や共演するメンバーとの交信も含めると、音楽そのものよりもそれ以外のことに膨大な時間が取られる。さながら小規模の個人事業主のようなものだ。

 

北カリフォルニアはベイエリアの黒人ブルースクラブで僕が毎週1回、計5年以上にわたりハウスバンドを率いていたとき、いみじくもそのメンバーの一人がこう言っていた。「Every good band has a dictator (良いバンドには必ず独裁者が居る)」と。言い得て妙だと思う。

 

既に書いたように、僕にとってライブの仕事をエンジョイ出来るかどうかは、バンドとしての演奏の質が高いことがまず必要条件だ。一流のプレーヤーは別として、アメリカで出会った自称「ミュージシャン」の多くは、そこをはき違えている人が多かった。彼らはたいてい、楽をして小銭を稼いでハイ(high)になろうとするのが基本姿勢であった。僕がライブ中に自分達の出す音に陶酔して自然に気分が高揚するようなことは、年に一度有るか無いかぐらいで、むしろ無いほうが多い。

 

ありがたいことに日本ツアーでは、メンバー個人個人のエゴが表面に出て来ることは、幸いこれまであまり無かった。これは和を重んじる国民性の違いなのだろう。

 

それに僕は人前で演奏するときはどんな状況であれ、必ずベストを尽くすように心掛けている。それは、良い噂というものは世間では中々すぐには広まらないが、悪い噂は電光石火のごとく飛び散るからだ。何処で誰が見ているか分からないから気を付けないと。

(続く)